やすらぎの愛の川

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聖書の言葉をご紹介いたします。

聖書の言葉

「主が設けられた日」

お元気ですか? 10月の歌声礼拝で、98歳のご婦人とこの9月16日に生まれたばかりの男の子がご対面しました。私はお二人を写真に収めたのですが、そのツーショットを見ていて何か不思議な気持ちになりました。約100年の時間を隔てて、今隣り合わせのお二人。
これは一体なにか?・・・出会いの不思議です。
普段私達が、自分と100歳も離れた人と会うのは非常に稀なことです。 また年の差がどうであろうと、世界に60億70億という大勢の人の中で、人がまた別の一人の人に出会うことは、実に尊いことではないでしょうか。 神様がそういう出会いを下さらなければ出会えないのですから。「出会いの背後に神がいる」そういう目で人生、その日々、時々を眺めてみますと、随分とその景色も違って見えてくるような気がします。

●旧約聖書、詩篇118:23-24
「これは主のなさったことだ。私達の目には不思議なことである。 これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。」

これから日もますます短くなり、冬に向かって参ります。でも、あの春のポカポカ陽気、夏の暑さを造られた天地創造の神が、冬の日々をも造られたのです。神様はその日々の中にも、不思議な出会いや、季節の楽しみを備えていて下さいます。「今日が一番幸せだった」大いなる神の御手の中で、そんなふうに生かされていきましょう。

「愛の手」

お元気ですか? 随分涼しく、というよりも朝晩は寒く感じるようになってきました。 もう秋はつるべ落とし、夕方あっという間に暗くなりますね。 先日、私と妻は大仙市と秋田市にあるそれぞれ実家の墓参りに行ってきました。この夏が余りに暑かったので、伸び伸びになり、ようやく行くことが出来ました。私の母親はまだ健在。健在といっても93歳、もうあちこち痛いやら、動かないやら、耳も遠くなりで大変です。でもクリスチャンの年老いた母親が、まず祈ってくれました。「神様、これまで言い尽せないくらいの沢山の恵みをお与え下さりありがとうございます。博たち家族をお守り下さい。」(博というのは私のことです。) 私は母親にそう祈ってもらっただけで、本当に満足でした。 帰り、家内の父親が好きだった日本海が見える道路を通って帰ってきました。秋晴れの日本海は本当にきれいでした。 青くて広い空と海を眺めながら、神様の愛に守られてきた、これまでの歩みを心から二人で感謝したことです。一つお言葉をご紹介します。

●新約聖書、エペソ3章17-19節
「キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知を遥かに越えたキリストの愛を知ることができますように。」

 イエス様のご愛は、海や空よりも広く、高く、深いです。どんな人をも受け入れ、赦し、支えてくれます。またそのご愛は一時的なものではなく、長く永遠です。あなたもこのイエス様のご愛で生かされていきませんか。 

「野に咲く百合のように」

お元気ですか? 9月になってもなお暑い日が続きますがいかがお過ごしですか。 先月の下旬、長女が住む山形市に行ってきました。お盆時期に会えなかったので会いたかったし、26歳の誕生日のお祝いもしたかったのです。 私の長女は8月生まれで、名前は「ゆり子」と言います。その名前は、イエス様が福音書の中で、明日のことを思い煩わずに「野の百合を見よ」と言われたお言葉に由来します。 そのイエス様の言葉は、27年前に私と家内が合川の開拓伝道に来て、右も左も分からず、先の保証など何もない中で、心をいつも支えてくれました。そういうイエス様のお言葉の支えの中で、長女は生まれて来たのです。 難義なことでも心をこめて精一杯する時に、必要なものは神様がすべて備えて下さる、必要が満たされるかどうかについては悩む価値もない、必ず神様は供えて下さるというのです。不思議なことに本当にそうでした。私達の心配がことを成すのではなく(それはむしろ妨げ)、神がして下さるのです。

●新約聖書、ルカ福音書12章27節
「ゆり花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾っていませんでした。」

 イエス様は、「野のゆりの花を見よ。」と指し示し、人の世話なしに美しく咲くその姿に目を留めよ!と言われました。それは人間のなす業など遠く及ばない、神の手の業です。あなたも野の百合の花を見て、思い煩いを一切神様にお委ねして歩みませんか。

「まず小さな事に忠実に」

お元気ですか? 8月になり暑い日が続きますがいかがお過ごしですか。夏休みに入り、近所でラジオ体操に集まる子供たちの元気な声が聞こえてきます。その子供たちの声や、セミの声、草刈り機の音を聞いて夏を感じ、また山百合や、立葵、ヒマワリの花を見ては夏を感じています。オリンピックを見て歓声を上げた方も多いと思いますが、スポーツでもどんな世界でも、最初から何でも出来た人はいません、地道な努力があったはずです。 スペインが生んだ19世紀最高のバイオリン奏者、サラサーテは、ある時に有名な批評家から天才と評されました。彼はそれに答えて次のように言い切ったといわれます。「天才?とんでもない。私はこの37年間、毎日14時間も練習を積んで、今ようやくこのようになったのです。」 私達の日ごろの努力を一番よくご存知なのは、天の神様です。イエス・キリストは次のように言われました。

●新約聖書、ルカ福音書16章10節
「小さな事に忠実な人は、大きな事にも忠実です。 小さな事に不忠実な人は、大きな事にも不忠実です。」

 私達も疲れたり、何か苦しいことがあると、何もかも投げ出してしまいたい、やめてしまいたいと思ったりすることがあるかも知れません。でもよく考えてみれば、大きな事を一回ですることは無理でも、小さな事だったら毎日出来るような気がしますね。今自分に出来ることを、精一杯少しづつさせていただきましょう。それを続けていく時に、神様があなたをもう一段昇らせて下さる時がきっと来るでしょう。

「十字架に帰ろう」

お元気ですか? 7月になり一週間が過ぎました。まだ梅雨の最中ですが、いったん日が照ると、夏だなあと思えるような暑さになります。山開き、海開きの季節、今月の16日は「海の日」ですね。私は、4年半ほど前に肝臓癌の大きな手術をしました。以来、山登りとか海で泳ぐとかが全く出来なくなりました。と言うよりも、そんな気にもなりません。その分、広い海に憧れます。
「海は広いな、大きな。月がのぼるし、日が沈む。
海は大波、青い波。ゆれてどこまで続くやら。
海にお舟を浮かばせて、行ってみたな、よその国。」
皆さんの海のイメージはどんなでしょうか?時々、人生は船で海を渡ることに例えられますね。晴れあり嵐あり、港に立ち寄り補給しつつ、目標をめざします。聖書の中にも、船人が海を行くことが歌われています。

●旧約聖書、詩篇107:29-30
「主があらしを静めると、波はないだ。波がないだので、彼らは喜んだ。そして主は、彼らをその望む港に導かれた。」

お互いの人生という船旅には、嵐の日が結構多いような気がします。 だから聖書は、疲れた船はイエス様の十字架という港で休むように勧めています。試練、失敗、人間関係、・・・いろいろなことで悩みます。人生長く歩んだ方々は大体、「人間は罪深い」「人間は欲深い」「人間はずる賢い」ことをよくご存知です。よくありたいが、そうでない現実がある。そうです。人生の海の嵐の根本原因は、他の人や、何かの事件などではなく、実は自分自身にあるのです。その解決は「神の完全な赦し」をいただくことだと聖書は説きます。あなたも、イエス様の十字架という港に立ち寄り、神の赦しをしっかりいただいて旅を続けませんか。

「羊飼いに守られて」

お元気ですか? 随分と昼の時間が長くなりました。まもなく「夏至」を迎えますね。 朝も早くから、夕方も7時を過ぎても、まだ明るくて活動できるくらいです。 先日夕方下の田圃沿いの農道を散歩に出たら、西に綺麗な夕日、東に青空をバックに白い夕月が見えてとても幻想的でした。江戸時代の俳句の名人、与謝蕪村の歌を思い出しました。「菜の花や、月は東に、日は西に」詩の時期は、春の菜の花の頃で、今より少し前ですが。 そばの休耕田には、羊たちが放牧されていてのんびり草を食んでいました。 羊飼いに守られ、こんな綺麗な景色の中で草を食む羊は何て幸せでしょうか。

●旧約聖書、詩篇23:1-2
「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます。」

この聖書の言葉は、イスラエルの王様ダビデの歌です。さぞかし彼はのんびりと吞気な人生、戦いのない人生を歩んだのだろうと思われるでしょう。でも彼の生涯は、波乱万丈の大変な戦いの連続でした。そんな彼がどうしてこんな歌を歌えたのでしょうか。彼は自分を羊に、守って下さる神様を羊飼いに例えました。そうです。羊飼いあってこそ羊が生き延びられるように、真の神様の守りゆえに、今の自分はあるのだと彼は確信していたのです。 羊飼いが羊を大切に養い育てるように、父なる神様は信じる者を、どんな時にも助け導いて下さいます。あなたも羊の心境で、天の父である神様を信頼していきませんか。

「ここで休みなさい」

お元気ですか? 今教会の下に見える田圃ではもうに田植えも終わり、稲が青々と緑の絨毯の ようになっています。暦は5月の「立夏」から6月の「夏至」に向かって動い ています。本当に昼の時間が長くなりましたね。 その分、朝早くから夕方遅くまでの、農家の方々の働きに心から感謝しま す。一日の終わりにはどんなにか疲れを覚えることでしょうか。 人間疲れたら、休まなければなりません。単なる気分転換でなく、皆さん は、魂の休み場、憩いの場をどこにお持ちですか?イエス様は言われました。

●新約聖書、マタイ11:28
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。 わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

「ここで休みなさい。」という安らぎへの招き、嬉しいですね。 ある日私が教会堂で祈っていると、突然「ブチッ」という大きな音がしまし た。一体何が起こったのかなと思い、見渡してみますと、部屋の隅に置いてあ ったギターの弦が切れていました。 弦が切れる音だったのです。 イエス様が「あなたがたを休ませてあげます」と言われた「休ませる」とい う言葉は、元々どんな意味かというと、竪琴(楽器)の弦を休ませる=張り っぱなしの弦を緩ませる、そんな意味のことばです。 私達の心も時には緊張を緩めて楽にしてやらなければ、切れてしまいます。 ぜひ皆さんも、イエス様の元に祈り心を持ち、安んじて休みを得ましょう。

「神は太陽」

今年は全国的に大変な大雪になっています。雪で苦労しておられる方も多いでしょう。思わず、「早く春が来ないかな。」と口から出て参ります。 それでも随分日が長くなりました。やがてもっと春が近づいて、本格的な春の太陽の日差しが差し込めばどうなるでしょうか。どんな大雪も、瞬く間に解けて消えてしまいます。やっぱり太陽の日差しはすごいですね。ところで、聖書はこう言っています。

●詩篇84:11「神なる主は太陽です。」

これは勿論太陽が神というのではなく、太陽のような神という例えです。 あの太陽さえも造られた天地創造の神こそ、真の神です。 お互いの人生において、凍えてしまうような経験があります。まるで氷で閉ざされたような、冷たい人生経験をすることもあるでしょう。しかし、どんなに人生凍えても、寒くても、氷が覆っても、神様はそれを溶かして、温めて下さいます。人の力では出来ないことを神様はして下さいます。太陽である神の、その温まりの中に置かされて、お互いに元気にされたいですね。

今、私の手元には昨年の夏に自分で撮影した一枚の写真があります。 そこには、台風の強風で倒れた一本のヒマワリの花が映っています。 正確に言えば、倒れて数日後のヒマワリの花です。その花は、太陽を向いて、つまり空を目ざして再び起き上がっています。私には太陽の光が、ヒマワリを天から引き上げているように見えました。主なる神様は、私達をも上にいつも引き上げて下さるお方です。希望を持って、共に上を見上げていきましょう。

No Title

皆さん、聖書は何か特別なものとお思いでしょうか? そうです。確かに、日本の習慣で暮らせば、なかなか聖書にお目にかかることはないかも知れません。でも世界のベストセラーが何かというと、毎年「聖書」なのです。聖書は不思議な本です。これほど人類の歴史上で迫害を受け、裂かれ破られ焼かれた本は他にないでしょう。私の知り合いにも、親に聖書を破り捨てられたという方が何人もおられます。でも滅びずに今日なおベストセラーであるのは、なぜでしょうか?

それは聖書が、人間の根本的な問題を語り告げているからです。 時代、場所、人の立場、男女を問わず、その根本を突いています。 中世16世紀の宗教改革者マルチン・ルターは、「聖書の教え、特に戒めは、クリスチャンであろうとなかろうと、すべての人が幸せになるための基準を示している。」という意味のことを言っています。

それはまずモーセの十戒に示されています。昔映画でご覧になった方も多いでしょう。そこには「両親を敬え。殺すな。淫らなことをするな。盗むな。嘘をつくな。人の物をほしがるな、うらやむな。」そう書かれています。 今日の新聞テレビのニュース、その多くは犯罪の記事です。犯罪を犯した人達は、そうしてはいけないことを知らなかったのですか。いいえ、みな十分に承知の上のことでした。十分知っているのに、それを犯してしまう。聖書はそれを「罪の性質」と言います。その罪の心から、憎しみ、妬み、欲望が生まれ、それが熟すると犯罪となるのです。犯罪に手を染めないまでも、そういう心をすべての人が内に隠し持っていると聖書は言います。その罪が心を曇らせ、心満ち足りることもなく、幸せを実感できずに人は歩むのです。富も、知識も、名誉も、この罪の性質から人を救うことが出来ません。

その解決は、罪の赦しということ以外にありません。罪は、その罪を持つ本人の頑張りではどうにもならないことです。イエス・キリストは、罪の刑罰を私達の代わりにご自分が十字架で受けて、信じる者に赦しを与えて下さいました。ここに罪人の救いがあります。罪深い者にも救いがある、これが聖書の告げるメッセージです。あなたもご自分で聖書を読んでご覧になりませんか。 新約聖書 ヨハネによる福音書3章16節 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」